失敗とは何だろう?
私は失敗には2種類あると思う。
ひとつは、誰もがついしてしまう、うっかりミスのようなもの。「人間だから失敗もあるよ」という感じの、いわばあまり根の深くないものだ。
例えば旅館の例で言えば宴会の後方付けなんかで、皿を割っちゃうとか、スーパードライを注文されたのに、一番しぼりを持っていっちゃうとかね。こういうことは、失敗してもいいということじゃないけれど、起こりうること。
特に人一倍動く人はその確率だって高くなるわけで(後片付けで10枚皿を運ぶ人より30枚運ぶ人のほうが単純にいって3倍割る確率が高くなる)、必ずしも100パーセント攻めるべきものじゃない。怪我に例えれば、カッターで手を切っちゃったというような、ちょっとくらい傷口が大きくて血が出ても、命にかかわるなんてことのない、そんな感じ。
何度も繰り返される場合は別として、「次から気をつけようね」となる、そういう類の失敗。
もうひとつは、一見たいしたことのない些細なことだけれども、実は根が深くて深刻な失敗だ。
これは、いずれ大きな失敗につながることになる。ただし、はじめは本当に一見たいしたことに見えないため、それとはつい気づかずに見逃してしまうことさえある。
傷で例えれば、傷口は小さく出血がほとんどなくとも、ピストルで心臓を打ち抜かれていれば、それは致命傷となる。
恋人同士や、親友同士で、あるとき本当に取り留めのない会話の中の些細な一言で「えっ?それは違うんじゃないの・・・」って思って、それ以来その相手をなんか信頼できなくなった、そんなことって誰しもあると思う。
価値観や世界観がぜんぜん違うっていうか、そういう驚きというか衝撃みたいな経験。
そこから生み出される失敗というのは、相手にとっては「なんでそんなことで?」みたいになりがちで、理解を求めることからして困難(あるいは不可能)だったりするのも厄介な点だ。
つい先日私の身にも起きてしまった。
外での用事を済ませて家に帰ると、彼らはその作業(仕事ではない、少なくとも私は仕事とは思わない)を淡々としていた。
私は驚いた。怒りよりもそれは驚きだった。私は何度となく私の考えていること、やろうとしていることを話してきたつもりだった。しかし、目の前で行われていたその“作業”はまさに私のそれまでの考え方、やり方を真っ向から否定するものだった。
勿論彼らは、嫌がらせでそれをしたのではない。彼らなりに良かれと思ってのことだろう。それがまた問題でもあるのだが・・・。
少し考えれば、あるいはほんの少し“感覚”を用いれば、その“作業”をすることに違和感を覚えたはずだ。
それが誰一人、ほんのわずかの違和感も、疑問も持つことなく、その“作業”は淡々と進められていた。
彼らは私が「何でこんなことしてるんだ!」と叱ったり、どんなに私が「これは間違ったことだ」と説明しても心から納得や理解はできなかったろう。
それどころか彼らはそれを“失敗”とさえ思わなかったろう。「これをしたからって、別にどうこうなるわけでも」くらいにしか思わなかったろう。
しかし、すべてを周到に計画してきた私からみればそれによって、それまでの努力が一瞬で無意味なものになることははっきり見えていた。
目の前で大きな音を立てて何千円もする皿が割れたときは、その失敗ははっきりと分かる。分かりやすいので反省もするだろう。
しかし、この失敗は音もしないし、粉々になった目に見える残骸もない。失敗と気づきづらいのだ。
だが、こちらの失敗のほうが実は根が深く深刻だ。長期的にみれば何千円でなく、ウチの経営にさえ影響がでかねないことなのだ。
つまり「コトの本質」にかかわる失敗だったのだ。
本当はきちんと叱って注意しないといけない。しかし、彼らは私の言うことを理解できなかったろうし、まして納得も反省も“できなかった”に違いない。
私はこう思う。そもそももし私が言って簡単に納得したり反省するくらいなら、初めからこんな“失敗”をしでかすことはなかったろう―と。
この日、私は食べたものの味が分からない程、打ちのめされ途方にくれた。
数日経った今、残された力を振り絞って振り出しに向かってとぼとぼと歩いている。
一緒に戦う仲間を見つけられたと思ったのは幻想だったのか・・・と自問自答しながら・・・。
また、ゼロから始めなければならない。この厳しい戦いを。
たった一人で。